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 選ぶことのできる選択肢が多く、自由が高まるほど、幸福は増す。人生全般にも同じ見方ができよう。「運命は決められている」と考えるより「自分の運命は自分で変えられる」と考えるほうが前向きに生きられる。
              「選択の科学」シーナ・アイエンガー・著(文藝春秋)より

 暦の上では「雨水」から「啓蟄」へ、どんどん春に近づく。何だかそわそわと気持ちが落ち着かない日々だ。厳しい寒さを耐えて花々が咲き乱れる春は、いっとき心が危うい感じになる。地に足が着いていないというか何をしても考えてもしっくりとせず、どこか気楽に構えている自分がちょっと嫌だな・・・っと思うのである。実は高校受験に失敗した時、まさにこんな状況だった。小春日和の温かな会場でお昼からの英語の試験に猛烈な睡魔が襲ってきて墜落。。。気づいた時はすでに遅し。時間にやり終えられずに、大幅な失点。あえなく第1志望校を落としたのだった。私の受験失敗に当時担任だった、和田先生が、「次は大学受験だな。そこで受かって借りを返してもらうからな!」っとのひとこと。この言葉が3年後の音大受験までずっと心の奥底にあり、必ず「借りは返す!」と願い続けて手中に合格という切符を収めたのだ。懐かしい思い出に浸ってばかりじゃなく、ここで長年(かれこれ17年くらい)悩み続けてきた案件に、もうそろそろ終止符をつけようではないか!さしずめ、悩みの原点に立ち返ってしっかりと向き合って今度こそ、逃げずに取り組もうと新たに決意をした。(悩みの詳細はいずれエッセイに書いて行こうと思っている)

雨水

 「人事を尽くして天命を待つ」という中国のことわざがある。自分の力でできる限りのことをしたら、あとは焦らずに、その結果は天に任せるという意味だ。つまり、チャンスというのは日々の努力を怠らず、きちんと準備をしたところにやってくるということである。今まで無駄に努力と言う名の行動をして、結果を出せなかった私の「悩みな」その案件は、きっと的を大きく外して最悪だったんでは?と、最近になって気づいた。私の悪い習慣に「猪突猛進」があり、自分がやっていることが一番正しい?!と深く思い込む癖がある。そこがボトルネックなんだとこの歳になってやっと気がついたってわけだ。遅し(涙)

ウェイティング

 まさしくウエイティング・ゲームのような人生。どんなに頑張っても成果のでない時がある。病気で第一線から離脱することも。また回りの人にはチャンスが来てるのに、自分には一向に巡ってこないと感じることもある。「こんなにガンバっているのに、自分には運がないんだろうか?」と嘆いたりしていた。しかし今ではそんな気分に陥ったら、自分に起こっていることを「客観的」に捉えてみるようにしている。好きで覚えている「孟子」の中に、「天が人に大任を授けようとする時は、まずその人の身心を苦しめ、窮乏の境遇におき、何をおこなってもすべてを失敗させて、わざわざその人を鍛えるものなのである」と。コレは凄い言葉
だと思った。たとえ不遇な出来事であっても、天からの試練として受け止めるべきであるということだ。あの受験不合格もきっとそうだったんだな、試練を与えて試されていたんだと勝手に位置づけている。(笑)

人生ゲーム

 いまだ好機が訪れないということは、要するに絶好のチャンスなんだ。天命を信じて、自分の悩みも木っ端微塵に吹き飛ばす春にしていこう・・・と急速に奮起している。まずは「チャンスはあたりまえの日常に転がっている」のだから毎日を全力で生きる。そして日々結果を積み上げて行こう。
幸先はよろしいようで!